設計レビューで、何も言えなかった
先月、チームの設計レビューでのことだ。画面を共有しながら議論が進んでいく中で、ふと気づいた。自分が何も言えていない。いや、言えないのではなく、考えていない。
AIにコードを書かせ、AIにレビューさせ、AIに修正案を出させる。このループに慣れきった結果、いざAIのいない場で自分の意見を求められたとき、頭が真っ白になった。意見がないわけじゃない。考えること自体をAIに任せきっていて、自分で考えるスイッチの入れ方を忘れていた。
考えなくなったのは、いつからか
振り返ると、明確なきっかけがあったわけじゃない。少しずつだった。
最初は単純なコード補完から始まった。そのうち「この関数どう書けばいい?」をAIに聞くようになり、気づけば「このタスク、どう進めればいい?」までAIに投げていた。手段を委ねたつもりが、判断まで委ねていた。
| AIに聞く前 | AIに委ね始めた頃 | 認知的降伏した状態 | |
|---|---|---|---|
| 判断の主体 | 自分 | 自分(AIは手段) | AI(自分は承認するだけ) |
| 考える時間 | たっぷり | やや減った | ほぼゼロ |
| 納得感 | 高い | まあまあ | 薄い(でも仕方ないと思う) |
| 自分の成長 | ある | ある | 止まっている感覚 |
| 疲れ方 | 達成感のある疲れ | 軽い疲れ | 何もしていないのにぐったり |
認知的降伏から抜け出すための優先順位
- AIに聞く前に、自分なりの答えをまず書き出す。たとえ間違っていてもいい。書くという行為で「考えた」ことにする
- AIの回答を見たら、まず「どこに同意できて、どこに違和感があるか」を言語化する。この一言がなければ、ただの承認になっている
- 一日のうち、AIを一切使わない時間を30分でも作る。その間に出てきた考えは、AIに確認しない
- 情報に溺れそうになったら、その場でノートを閉じる。「理解しきれない」と思ったら、いったん距離を取る
「情報が多すぎて諦める」のも認知的降伏だ
認知的降伏は、AIに頼りすぎるケースだけじゃない。情報過多で理解することを諦めてしまうのも、同じ現象だと感じている。
技術記事を10個開き、Slackの通知が溜まり、Xのタイムラインが流れ続ける。一つひとつに向き合う余裕がなくなり、「もういいや」とすべてを閉じる。あれも一種の降伏だ。情報を処理することを認知が拒否している。
後から知った言葉
自分が「AIに任せすぎて考えなくなった」と同僚に話したら、「それ、Xで『認知的降伏』って呼ばれ始めてるよ」と教えられた。調べてみると、確かにAI時代の認知的な諦めや判断放棄を指す言葉として使われている。
名前がついていると知って、少しほっとした。自分だけじゃなかったんだと思えたからだ。AI時代に考えることをやめてしまう現象に、誰かが言葉を与えた。それはたぶん、対策の第一歩なんだと思う。
AIを使うなと言いたいわけじゃない。自分は今、このブログをAIに一切頼らずに書いている。書くという行為は、自分の頭の中にあるものを外に出すことだ。考えて、違和感があって、書き直して、また考える。このプロセスそのものが認知的降伏に対抗する手段になっている。
AIが出した文章をコピペするだけでは出てこない感覚がある。自分で書いていると、書きながら「あれ、これ本当にそうだっけ」と引っかかる瞬間が何度もある。その引っかかりこそが、自分の考えなんだと思う。認知的降伏を避けるには、面倒でも自分で言語化するしかない。